賤ヶ岳の七本槍

「本能寺の変」の翌年 天正11(1583)年、
信長の跡目をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が戦った
「賎ケ岳の戦い」で勇猛果敢な働きによって秀吉に天下人へ道を開くきっかけを開いた七人の若武者、
加藤清正・福島正則・片桐且元・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟谷武則を称えて
「賎ケ岳の七本槍」と呼ぶ。

加藤清正

秀吉と同郷。幼少より秀吉の台所方に仕える。近江長濱にいたって秀吉に仕えた。
山崎の合戦・賎ケ岳の戦等で功名をあげ、主計頭に任じられ、後に肥後半国19万5千石を領し熊本城主となる。
1592年朝鮮役では小西行長と並び先鋒として渡鮮。朝鮮役の講和条件で石田三成と対立を深める。
関ケ原合戦では徳川方につくが、参戦はせず、任国の肥後にあって国内の乱を平らげ、家康から肥後一国(熊本)54万石を与えられたが、秀吉の旧恩を思い、豊臣家の安泰を念願。家康と豊臣秀頼の二条城会見に従い豊臣家の危機を救ったが、その帰途船中で病にかかり、まもなく病没。毒殺との説もある。

福島正則

尾張海部郡の人。母は秀吉の伯母と伝えられるも、家業は桶屋といわれている。
幼時より秀吉に仕え賎ケ岳の戦では、七本槍の筆頭として高名を上げ、近江・河内のうちで5千石を得た。
小牧の役を経て雑賀攻撃に当たり和泉畠中城攻めに功をたて伊予国11万石に封ぜられ今治に居城。秀吉子飼いの第一線の武将として軍功を上げた。関ケ原の合戦には石田三成と対立していたため東軍の先鋒として西軍の主力宇喜多秀家隊と交戦、東軍の勝利に大きな貢献をなした。その功により安芸・備後2州49万8千石の大封を与えられ広島を居城とした。しかし、秀吉恩顧の将であったため家康に敬遠され、大坂冬の陣には江戸城に止めおかれた。夏の陣の直前には、保身を計り、淀君に人質として江戸に下るべきことを勧告した。
1615年広島城の修築を武家諸法度違反として咎められ芸備2州を没収、信濃川中島および越後魚沼郡4万5千石に移され蟄居。程なく病没。幕府の検使到着以前に遺骸が火葬されたことをもって封は没収された。

片桐且元

近江の人。若くから秀吉に仕え、賎ケ岳の戦のあと1万石を与えられた。朝鮮役に従軍。
秀吉没前に後事を託されて秀頼の後見となる。関が原の戦に当たって秀頼の無関係を家康に説いて、その安全を図る。慶長19(1614)年大仏鐘銘事件に当たり家康に了解を求めるため駿府に下ったが会えず、本多正純の意見に従い大坂城開場を主張、淀君らに疑われ大阪城に登らず。冬の陣に徳川方に参戦。大坂落城に際し淀君・秀頼の助命を頼んだが、家康はこれを拒否。戦後家康から4万石を与えられたが、秀頼没日より20日後に病没。

脇坂安治

近江浅井郡の人。はじめ明智光秀に仕え、ついで羽柴秀吉に属し賎ケ岳の戦で功を立て山城に3千石を得た。関ケ原の合戦にははじめ西軍に従ったが、戦いの途中に小早川秀秋らと東軍に寝返り、ついで佐和山城を陥した。1609年、伊予国大洲5万3千石を賜る。子孫相承して明治に至り華族に列し子爵となる。

加藤嘉明

三河の人 15歳で秀吉に仕える機会を与えられた。賎ケ岳の戦で功を立て5千石を与えられた。伊予松前城主6万5千石。以後、九州征伐・小田原の合戦・朝鮮の役等で功を立て十万石に加増加。関が原の戦では東軍に属し黒田長政・細川忠興らと先鋒石田三成隊を撃破した。
その功により伊予松山25万石に封じられ、1627年合津城40万石に転じた。

平野長泰

尾張津島の人。天承7年羽柴秀吉に仕える。賎ケ岳の戦の功により感章および食田5千石を賜る。慶長3年豊臣氏を賜る。後に徳川家康に属し、大坂の陣においては江戸城の守護を命じられた。 子孫は幕府に仕え、交代寄合い*に列せられる。
*交代寄合い: 江戸時代、3千石以上の旗本の非役の者で、大名に準じて、その知行に居住し参勤交代の義務を持つもの。

糟家武則

播磨の人。幼くして孤児となり、糟谷友政に養われ、別所長治に属し、黒田孝高にたのんで羽柴秀吉に仕える。
賎ケ岳の戦で獅子奮迅の働きをなし5千石を賜り、累進して播磨加古川1万2千石を食む。
関が原の戦いにおいて石田三成に属し、敗戦して加古川1万2千石を削られ、廃絶。

[参考文献]

『戦国合戦大事典』新人物往来社 1988年

『日本歴史大辞典』河出書房新社(昭和56年5月)

『大日本人名大辞典』平凡社 1979年 復刻版 第1刷

『日本歴史人物事典』朝日新聞社編 …

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